丹念に暮らす
こんにちは。OGUROBBYです。
血液型の話って、よくあると思います。
僕はO型なのですが、実は7-8年前まで、自分の血液型をA型だと思い込んでいました。
両親は共にA型。
小さい頃からA型だと言われて育ち、以降、一切疑問は持たず。
若い頃は落ち込むと、「典型的なA型だな。なんでこんなに不器用なんだろう。」と思ったりもしたもんです。
苦手な人にB型が多かったのも、自分がA型と思い込むのに拍車をかけたのかもしれません。
転機は、7-8年前にふらりと寄った人生初の献血。
人生初のマラソン大会(5km!)に行った帰り、近所のスーパーの駐車場で献血のクルマが停まっていたのでした。
当然ですが、献血前に血液型のチェックをします。
「O型でよろしかったでしょうか?」
「は???そんなわけないですけど。マラソンで疲れているので、血液の組成がいつもと違うんでしょうか?」
そんなありえない発想が出てくる位、動揺していたんですね。
隣にいた嫁にもたしなめられ、僕は息を整えつつ、それまでの30年以上の A型人生 を振り返ります。
「君、本当にA型なのか!?」
かつては、そう説教した上司もいました。
あの夜も、本気で悩んだな。。。
自分は本当にA型なのか、と。
今では笑い話ですが。
あの献血を境に、僕はA型としての自分と決別し、O型であることを受け容れるわけです。現金なもので、O型であることを受け容れた瞬間、B型への苦手意識を克服。
今では、B型と聞かされても、全く気にしなくなりました。
血液型って何なんでしょうね。
今日のお題は、「丹念に暮らす」。
大雑把なO型の僕には、似つかわしくないタイトルなんですけど。(笑)
目次
1.「もっと、もっと」からの脱却
2.丹念に暮らす
1.「もっと、もっと」からの脱却
昨日、こんな記事を読みました。
「ダウンシフト」について、とてもシンプルに書かれています。
この記事で、「ダウンシフト」に欠かせないと挙げられているキーワードは3つ。
- ミニマム主義
- 半農半X
- 横出世
この中の、「ミニマム主義」について。
個人的には、「足るを知る」の方が耳馴染みが良いですが、要は欲望のハードルを下げることです。
「欲望のハードルを下げる」って、どうやるの?
そのためには、まずは欲望と向き合うことが必要と思います。
欲望は自発的なものとは限りません。
気付かぬうちに、「常識」という名前にすり替わり、あなたの傍に潜んでいるかも。
例えば、テレビ。
テレビは一家に一台、あるのが当たり前。そんな常識に囚われていませんか?
我が家は、移住に当たってテレビを手放しました。
東京にいる間は、少なく見積もっても、在宅時間の半分くらいは、テレビがついていました。(睡眠時間は除く)
時に録画されたものだったり、DVDだったりもしたけれど。
実際にテレビがなくなって6か月目。
何の不自由もなく暮らしています。
「最近、〇〇 って見ないね~」
「だって、うちテレビないから見る訳ないじゃん」
嫁に突っ込まれるまで気付かない位、テレビがないことが日常になった。(笑)
テレビがないと、当然それ以外の時間が増えます。
夫婦の会話だったり、本を読む時間だったり、睡眠時間だったり。
あと、NHKが集金に来た時に、躊躇なく言える。
「ウチ、TVありませんから」
「欲望のハードルを下げる」というのは、欲望を殺すことではない。
向き合って、自分がしたいことが何なのか、突き詰めることも必要。
そうすれば、優先順位がつきます。
ただ、自分がしたいことを見つけるのがゴールではありません。
お金と向き合うことも、忘れてはいけない。
上の記事にもありました。
大切なのは、まず自分が最低限の生活をしていく上で、どのくらいのお金があれば生活していけるのかを知っておくということです。
特にサラリーマンで定期収入のある方は、盲点になるのかもしれません。
自分では疎かにしていないつもりでも、案外できていない。
僕も、確定申告で色んなものと向き合いました。
まあ、この話はまたの機会に。
2.丹念に暮らす
「丹念」て、意外と自分では使わない言葉ですよね。
意味も分かっているようで、実はちゃんと知らなかったり。
【丹念】
まごころをこめ、念を入れること。細心の注意をしてよく扱うこと。
引用元:広辞苑
この「丹念に暮らす」というのは、最近読んだ本にあった言葉。
良い言葉だな~、と思ったので紹介させて下さい。
著者の坂本さんは、専門学校でデザインを学んだ後、自動車メーカーに勤務。
のち、陶芸家に転じたそうです。
糖尿病になったことをきっかけに、食事に対して求める方向性を「量から質へ」転換。
面白いのが、「質」の中身です。
ちなみに「質」っていうのは、おいしい素材にこだわるということではありませんよ。贅沢な素材で料理するということでは、けっしてない。ようするに美食ではないのです。僕はマニアックな料理法とか悦楽的なおいしさを追求しているわけじゃないのです。
料理を突き詰めるとね、例えばコーヒーの淹れ方一つでも、豆からこだわって微に入り細に入りマニアックに」やっていくと、それは確かにおいしいコーヒーになるかもしれない。
でも僕は、おいしさっていうのは、ある程度のものでいいと思う。いつも手に入る豆で、ある程度おいしく飲めればオッケイということですね。で、それをうちの定番というふうに決めちゃうわけです。「もっと」ということになるとキリがない。あんまりマニアックに考えると日常的に継続するのはつらいです。なおかつ素材はパーフェクトでないほうが料理はより楽しめるというものです。自分の想像力で一皿の料理がおいしくなるというのは楽しい事なんです。
引用元: 坂本素行 「糖尿病S氏の豊かな食卓」
※以下、断りない限り、引用元は同著とします。
出ました。「もっと」からの脱却。
「質」といっても高級な素材を追いかけるのではなく、工夫したり、途中を楽しむことで、質を上げようと言っている。
例えば、急に松坂牛なんて頂いても、結構困ったりする。
ビックリはするけど、我に返ると持て余してしまい、案外ストレスだったりする。
素材に見合うだけの調理スキルだったり、調味料がないから。
あ、安心して下さい。
松坂牛なんて貰ったことないので、想像の世界です。(笑)
でも継続的な質を追うというのは、高級な素材を追うのではなく、プロセスを楽しむことなんじゃないか、と。
それこそが、「丹念な暮らし」の第一歩ではないかと思うわけです。
最近思い至ったことなんですが、いつの時代の人も「昔はよかった」って言うんですよね。昔がよかったかどうか、それはもちろん一概には言えない問題ですが、なんとなくみんなが「昔はよかった」と言ってしまうところに僕は何かがあるような気がするんです。
僕が思うに、昔のよさっていうのは、貨幣経済がまだ未発達で自分独りで生きている部分が大きかったということではないか、と。そうすると、何をするにでも自分の感性が必要になってくるわけでしょ?自分で判断する、自分で作る、自分を開拓する。自分に求めるものが昔に戻れば戻るほど多いんですよね。 (中略)
つまり、昔に遡れば遡るほど、生きていく上で己自身に内容を持たざるを得なかったということです。それをだんだんと人間はお金に置き換えていって、置き換えていけばいくほど空虚になっていって、それで空虚になった自分を埋めるために外に何かを求めるようになった。例えば外で食事をして満足を得るということになる。それは刺激ということでしょ?
バッサリ。
「丹念な暮らし」。
なかなか、良い言葉だなぁと思うわけです。
とは言え、我が家も別になんでも手作りというわけではない。
年末の年越し蕎麦も「どん兵衛」でした。(笑)
ここで言う「丹念な暮らし」を出来る範囲で志向しつつ、プロセスを楽しみながら、この場で共有していこうと思います。
次回をお楽しみに!