ダウンシフトを生きる

「ダウンシフト」、一緒にはじめませんか?

次の時代を、先に生きる。

こんにちは。OGUROBBYです。

先日、夜中に屋根裏をネズミが這う音で目を覚ました。
いや、ネズミかどうかは定かではない。
ただ、ネズミ大と思われる何かが、天井の板一枚を挟んだ向こう側を、走っている音がする。「トコトコ」と。

先日、家の外でネズミを見掛けたので、特に驚くこともない。
ただ音が気になって眠りにつけない。。。

試しに、「ニャーゴ」と言ってみた。
隣で目を覚ました嫁と一緒に、猫の鳴き声を真似てみる。

するとどうだろう。
ネズミ(?)は架空の猫に恐れをなしたのか、鬱陶しい人間だと思ったのか、その場を去った。
都会の集合住宅では、絶対に経験できない。(笑)

今年は酉年。ネズミの時代は、まだ少し先だ。
そんなネズミにあやかる訳ではないが、今日ご紹介する本はこちら。

「次の時代を、先に生きる。」

次の時代を、先に生きる。 - まだ成長しなければ、ダメだと思っている君へ -

目次
1.高坂勝さんとの出会い (長い前置き)
2.「The消費者」という生き方
3.次の時代を、先に生きる。


1.高坂勝さんとの出会い (長い前置き)

以前にも、このブログで軽く触れましたが、高坂さんと出会ったのは、昨年2016年の2月か3月の、とある講演会。
確か、地球のしごと大学の主催するものでした。

講演会後に立ち話させて頂いた際、「実は今年末で会社を辞めるんです」と言ったら、「おめでとうございます」と、とても素敵な返しを頂いたのがきっかけ。
 

ogurobby.hatenablog.com

それから高坂さんが営まれる「稼ぎすぎないことを目標とした」オーガニックバーに、約半年間、一顧客として、通わせて頂きました。
通勤経路が池袋を通る幸運もありました。

僕のような人間は全く珍しくなく、初めてバーに行った際、隣の人が「実は今日、会社辞めてきました」なんて話すので、驚いた記憶が。
ここで色んな出会い、ご縁を頂きました。


ある日、悩みを抱え、見るからに意気消沈している若者に出会いました。
入店して通された席が、その若者の隣だったのです。
彼は、お通しと、お酒1杯くらいしか飲んでいなかったのではないでしょうか。
悩みの中身までを僕が知る由はなく、彼は直ぐに席を立ち、勘定を済ませ、去り際に
「気が向いたら、また来ます」と言いました。

すると、高坂さんは彼に言いました。

「いや、気が向かなくても来てよ。ジャブジャブとはいかないけど、ただ酒飲ませてあげるから。」

それを聞いて、感じました。
この人はビジネスとしてバーをやっているんじゃないんだ。
「儲け過ぎない」バーとして、もっと大きなメッセージを発信している、と。
まぁ、本にも散々書いてあるんですが、「看板に偽りなし」というやつです。

僕自身、前著「減速して自由に生きる」の中でも、
「システムを降りる」と言う表現に勇気を貰い、
「足るを知る」と言う言葉は、今でも具体的なアクションを取る際の物差しになっています。

 

ogurobby.hatenablog.com

 


そして、「ダウンシフト」と言う言葉は、このブログの標題として使わせて頂いているし、今ではすっかり僕の胸の中にも根付いた感があります。

オリンピックの聖火のように。


ここ、島根県吉賀町柿木村は、
最寄りのセブンイレブンまで車で40分。
同じく、ローソンまで25分。
ファミリーマートに至っては、最近見ていない。(笑)

便利とは程遠いそんな環境が寧ろ心地よく、人生を謳歌し始めている。

今一度言おう。
僕がこのブログをやっているのは、現在 ‟常識とされているもの” に疑問を抱きつつも、心身を疲労させてシステムの上で一生懸命生きている、そんな人々の背中をそっと押したいから。

間違えて突き落としちゃったら、ごめんなさい。

僕自身もまだまだ見習いだけど、等身大で手作りすることの面白さや葛藤を伝えていきたいと思っています。



2.「The消費者」という生き方

前置きが長くなりました。
時間の無い方は、ここから読んで頂ければ、言いたいことは伝わります。

早速引用します。


巷では、成長、成長とうるさい。
経済成長やら、GDPやら、売上目標やら、毎日毎日いたるところで拡大を目指す数字が、働く人を追い立てる。数字を上げるために、勝ち残るんだ、強みを持つんだ、資格を取らねば、弱点を克服せよ、と迫って来る。そして当然、働く人は何かをもっと売るために、ありとあらゆる手段を使って、消費者を煽り立てる。

一方、働く時間が終わってプライベートになると、そのツケが自分に回って来る。アレ買え、コレ買え! と雑誌も広告もラジオもテレビもネットも、プライベートな人たちを追い立てる。劣等感を煽られて、誰かと比較されて、君はまだ足りないって! 人にお金を使わせて、「The消費者」にしようとする。

それで、モノを、サービスを、買う。結果、より買うために、より働かねばならなくなる。いくら買っても、いくら働いても、永遠の満足など得られない。自分の時間と心を擦り減らす方が遥かに多い。

何のための成長か。モノを増やすため?何かを永遠に買い続けるため?そのために君は生まれてきたのか。それでも成長したい?活躍して立身出世したい?将来の安定や安心のため?勝ち残るため?親や大人や世間がそう言うから?向上心は大切だが、比べている限り、克服しようとする限り…君は辛い。

 引用元: 高坂勝 「次の時代を、先に生きる。」

※以下、特に断りない限り、引用元は同著とします。



こちらに移住して、お金の使い方が変わったことは、何度かこのブログでも書きました。家計(生活費)を除くと、本当にお金を使わない。

近所の温泉のコインロッカーでは、何日も同じ100円玉を使うことはザラ。
数か月ぶりに通帳記帳しても、数行で終わる。(預金下ろしてない)
近所の買い物では、一万円札を出すのが憚られる。(お釣りがあるか?)

東京にいるときは、ちょっとした空き時間に喫茶店入ったり、
ちょっとでも「お!?」と感じるものを見かけては、「一期一会」と無理やり自己を正当化して物を買ったりしていました。

今思うと、何だかなぁ…という感じです。

『魂の退社』を執筆された 板垣えみ子さん が、そういった状況を、‟チューブにつながれて生きる重病人” と例えていました。
僕もかつては、‟重病人”だったわけですが、対処療法だったなぁ…と改めて感じます。

 

ogurobby.hatenablog.com

気分をリフレッシュするキッカケさえ、消費に頼ってしまう。
正に、「The消費者」でした。


「The消費者」が悪いとは言いません。
それも生き方です。

ただ、知らず知らずのうちに、「その生き方しかない」と思い込んでやしませんか?
その生き方の先に、何があるのか。
一度振り返ってみては、いかがでしょうか。

ある講演会に呼ばれて、収入が数千万円と思われる方と一緒にトークしたことがある。私が「収入が少なく贅沢の回数は減れども、自分で作るものは相対的にも絶対的にも美味しいのだ」と話した後、その方はこう言った。「私はレストランに行って値段を気にせずに注文できる幸せを追求したい」。それもアリだろう。しかし数千万円を稼いでも、未だに値段を見ずに注文できないとしたら、さらにいくら稼ぎ、そのためにいくら働き、どれほどのストレスを乗り越えれば、それが可能になるのだろうか。

 

3.次の時代を、先に生きる

消費者 = 財やサービスを消費する主体のこと。

確か、経済学の教科書にもそんな風に書いてあった気がします。
言葉の定義としては正しいのでしょう。
でも、消費する主体である自分たちが、実は消費されているのではないか?
そんな風に思ったこともあります。

誰に?
"名前を言ってはいけないあの人" ですよ。 (ハリーポッター風)
いや、"あの人たち" かな。

「経済成長至上主義」。経済成長のためなら、何でも許されてしまう。経済成長至上主義は、市場原理主義とか新自由主義とか言われる。市場にすべてを任せれば上手くゆく、という考え方であり、新自由主義の「自由」は、企業にとっての「自由」であって、人々の自由ではない。アベノミクスによって「世界で一番企業が活躍しやすい国にする」なんて言う。だから、原発を動かすこと、原発を海外に売ること、武器を作ること、武器を海外に売ること、それらを可能にした。その原発や武器で、人の暮らしやいのちが奪われても、儲かる方を選択したのだ。
 アベノミクスは、経済成長できる可能性のすべての方法を総動員して全力で進めている点で、壮大な実験である。そして実験の結果は出た。経済成長できずに格差が広がるだけ、だったということ。無駄な時間と無駄な財政支出と無駄な借金と無駄なリスクを冒してそれをした。大企業と富裕層だけが儲かった。それはいい。しかし、未来世代にツケを残した。低所得や厳しい家計状況に陥ったり、仕事が辛くなって追い込まれたり、病気したり自殺に追い込まれた人たちがどれだけ生まれたろう。実験だった、なんて呑気なことは言えない。


今は、極端に経済が優先されてしまっている。
先般、電通の事件が報道されていたけど、氷山の一角に過ぎない。

夜の新幹線に乗ってみたら、一目瞭然だ。
ひと昔前は、ビール片手に新聞や雑誌を読むサラリーマンが大勢だったけど、今は新幹線の席にまでPCを持ち込み、皆仕事している。

心を病み、突然会社に来れなくなる人も、何人も見てきた。
「自己管理がなってない」なんて誰かの声に苛立ちを覚えつつ、今回は自分でなかった幸運に感謝しつつ。
でも、そういう場に居合わせても、立ち止まれなかった。
運転中に車に轢かれた動物を見つけ、避けて行くように。
残された人で、穴の開いた分をどうやって役割分担するかの話し合いが直ぐに始まるし、立ち止まれば仕事が止まり、今度はそのツケが自分に返って来る。

会社を辞めることを決めた後は、色んな事象を俯瞰してみることが出来るようになった。つくづく、会社というのは宗教だ。この宗教においては、利益こそが神。

高級レストランに行くために、高価なブランド品を買うために、心身を擦り減らして働く生き方もあって良い。
でも、そういう働き方を何気なく選択し(選択したという実感もないままに)、苦しんでいる人の何と多いことか。
と言っても、周りも同じように苦しんでいるから、「自分だけ楽しちゃ悪い…」なんてついつい頑張ってしまう。苦しんでいる自覚すらも、誤魔化し、押し殺してしまう。

では、「次の時代」とは、どんな時代、社会なのか。

私の中には未来の社会ビジョンがある。誰もが上を目指さねばと思い込まされている現代、そこから落ちこぼれたり、ついてゆけない人たちが溢れ出ている。上など目指さなくていい。ついて行く必要などない。経済成長は人間を含むすべてのいのちを脅かしてゆく行為なのだから。経済成長など関係なく、誰もが満足して暮らせる社会に近づけること。それが私の目指す社会ビジョンだ。上を目指さずとも、誰もが尊重され、いのちと自由を脅かされず、満足感に溢れる働き方と暮らし方ができ得る、そんな具体的なあり方を示したいと思い続けてきた。
 低コストライフがまさにそれだ。都市部から離れて、主のいなくなった空き家を改修し、田んぼや畑で半自給し、足りないものは互いに補い合い、使い古された車を安く手に入れ、電気などのエネルギーを自ら作るか地域から調達し、世界の人々と情報を共有し、誰かに気兼ねせずに堂々と自由に言葉を発することができ、誰からもいのちを脅かされることなく安心して暮らせること。それらを低コストでできること。
 誰もがそうする必要はない。企業に勤める人がいていい。お金を儲けたい人がいていい。大きくなりたい企業があっていい。しかし、成長や拡大を強要されて他に選択肢がない今の経済社会にオカシイと言いたいのだ。違う選択でも豊かに生きられることを伝えたいのだ。選択肢があれば、人生そのものをどちらかに選んでもいいし、人生の折々でどちらかに変えてもいい。

 

 「低コストライフ」。
都会で消費者としての生活にどっぷり浸かっているうちは、物凄くハードルが高いように思える。
でも、田舎に来てみると、既にやっている人は珍しくない。
勿論、やったことはないのだけれど、周りに先生は沢山いるし、ハードルが自然と下がって来るのを感じている。

「次の時代」、今年も進んでいくよ~!!(手探りだけど)

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